人生を振り返ってみた
なんで書くか
- 弟が結婚した
1/24に弟が籍を入れたそうで、人生について考えさせられました。
11月ごろに突然聞いたのですが、正直彼女がいることすら知らなかったので、驚愕でした。
配偶者となられた方は大学同期らしいので、そういうものですよね。となりました。20代前半の大卒で結婚する人はそういう人ですよね。(他人事です)
彼は宇都宮にいるのですが、配偶者の方は前橋勤務で、新卒で働き始めて双方に大して友人もいない環境で行き来したりすることで愛が深まったのかな?と邪推していました。
コッパンらしいのですが、結婚すると異動になって近くの事業所に移れるらしいです。おめでとう。
私は社会に出てから女性アイドルと話す頻度の方が高いので何もわかりませんが...。
- いつ死ぬかわからんしね
これは最近思うことが多くなってきたのですが、やはり人間いつか死ぬのですがそれがいつかはわからないというところで思考の履歴は何か残しても良いかなと思います。 気づいたら誕生日を迎えて彼女なしガチ恋26歳男性となっていたので、自分の人生について見つめ直すかと思いました。
私のことをある程度知ってる人じゃないと見ても仕方なさそうですね。
自己開示は苦手ですが、インターネットでしかイキることができないのでインターネットにでも記録しておくのは大事かなと思っています。
幼少
千葉県柏市に生まれて小学校2年生の最後までそこにいました。
手賀沼公園とかR16から行きやすいアンデルセン公園によく行っていた気がします。たまに行っていた記憶がある柏駅のそごうはもうないですね。
弟が小学校入学するタイミングで母親の実家近くに転校しています。旧実家はバブル期にスーゼネが建てた駅前マンションだったので結構良いとは思いますが、数年後に売り払って今の実家の土地代と化してると思います。親の職的には車通勤の職業なのになんで駅前にしたんだろうとふと思います。今売っても大して値段変わらないので不動産って難しいですね。
その際の転校というものにあまりいい覚えがないですが、気づいたら多少馴染んでいたと思います。コミュニケーション能力が相対的に低いのは変わらずなので最初困った気がします。
今思うと勉強と運動ができるだけの精神的に不安定なすぐ泣いたり拗ねたりする男の子だったと思いますが、今も大して変わらないですね。
中日の某選手と小学校が同じなのですが、かつてその人がいたチームでソフトボールをしていました。それなりに強かったのですが、よく考えたらほとんど土日が潰れていたと思います。県大会で3位とかで関東大会やら東日本大会やらで遠征する程度には強いチームでしたが、私は足が少し速いだけのバットに当たる確率が低いけど当たれば飛ぶという6~8番に置いておかれる人間でした。
中学受験したければしていいよスタンスだったのですが、特にそんなモチベーションもないのでしませんでした。
後述しますが、私の中学校は色々ダメなのを確認できていたので、弟は小学校6年から雑に中学受験の勉強をしていました。中学受験としてはそんなに難易度が高くもない中学へ進学しましたが、今も仲が良さそうなので6年通して一緒っていいねと思います。
中学
3つの小学校から集まる形で、私の小学校は全員、残り2つからが半分みたいな感じでした。そこは概ね0からの人たちも多いのでそこから仲良くなった人も多いです。今は特に連絡とることもないですが....。
足は人より速かったのと楽そうだったので陸上部に入りました。全く楽ではなかったですが、今も続けているので好きなんだと思います。顧問の先生がバレーボールを専門としていたのが今となっては基礎的な部分を教えることができる陸上専門の人が良かったなと思います。中学生が自分で色々考えて競技するほど部活なんてちゃんとやらないしね。なお、8人くらいいた同期男子が最後は3人でした。
仲良くしていた女の子に誘われて高校受験の塾に入った気がしますが、フラグやん...となるね。その頃何も考えていませんでした。特に定期試験用の勉強をしたことがなかったのですが、中2の秋くらいに試しにやってみたら1番だったのでその後からちゃんとやるようになったと思います。
学校自体は1年目から動物園だったと思いますが、先生が病んで辞めすぎだったのでイキったガキは最悪だなと思います。彼らもみんな地元LOVEみたいな感じでやっていることかと思いますが、個人的な関わりが皆無なので何も知りません。
被害を受けているものとしては、下記かとは思います。
- 陸上部の部室が燃えて使用不可能となったこと(揉めてた隣接中学校の人の放火らしいですが、不審火として終わった)
- 教室に消化器を撒かれたことによって置いていた教科書などが粉まみれになった(犯人は謎として葬られた)
無駄な労力だから捜査をそこまでしていなかったんでしょうけど立派に犯罪ですね....と思います。鑑別所に入ったりしている人間がいた記憶がありますが、彼らは何をしたんでしょうかね...。 3年目には180cm以上ある男性教員が集められていた感じがありましたがそういうのを考えて人事をするんでしょうか。
高校
アレな人たちが1クラスにだいぶまとめられていたおかげで、邪魔されることもなく学校の授業をシカトしつつ受験勉強ができました。おかげでそれなりの成績でいることができていたので、行く予定だった高校に進学しました。ちゃんと予定通り進学できたおかげで家を8時ちょっと前に出てもギリギリ学校に到着する生活ができたので良かったです。
入学当初、授業中に全員がちゃんと座っていることに驚いた記憶がありますが、当然だし頭狂っているなと思います。
- 部活
案の定陸上部に入ったのでそれなりにはちゃんと走っていました。最終的に女子100mの日本記録と同タイムです。中学時代と相対的な順位は特に変わらず、100mで県大会予選落ちでしたので、100mの個人種目で考えると千葉県の同学年で50番目くらいの感じでしょうか。
予選42"15で全体8番目で抜けたのにこれでちょっとやらかして42"5くらいで準決抜けられなくて結構悔しかったですね。推薦で人を取るような私立高校と普通に戦えていたのはリレーの面白いところですね。
2019年秋頃に高校時代の部活の顧問が亡くなったのですが、これもまた人が亡くなるのは突然ですね。と思うところでした。
最後に会ったのは2017年の関東医科だと思いますが、陸上競技を教えることに生きていた感じはあったので感謝するところは多いです。
4継でバトン繋いでた後輩が気づいたら2019年に東医体の100で優勝して、日本選手権B標まで0.15くらいまで迫ってて笑いましたが、2020年シーズンがほぼ無になっていたので悲しい話ですね。
- 学業
高校時代は部活をして、アニメを見て、紙芝居2次元美少女ゲームに夢中になっていたら本当に勉強しないで過ごす状況となっていました。やりたくない教科ではテスト勉強を本当に1ミリもせずにいくこともあったので英語の試験で19点を取って呼び出されたのを覚えていますが、一緒に呼び出されていた人たちは今も会う人たちなので面白いですね。
2年目までの成績が悪い人の多くは文系に行く傾向があるので、2年目までクラスで下から10番目だった成績が3年目にはクラスで下から5番目くらいになっていました。
大学
そんな成績でどうにか入れるであろう大学の中で、運動面の設備が良く、一人暮らしがしたいなということで乳首大学にしました。センター8割弱でもどうにかなる割に社会的には評価が高いのでアドです。ちなみに千葉大も変わらないのに埼玉大と同じような扱いされるのでディスアドなのでなしでした。家族僕以外千葉大関係ですが。
陸上
他のことやるかと思いつつも結局陸上をサークルで続けました。週4で活動がある中で週2~3で行っていましたが、結局高校時代の自分の方が速いという状況でした。
ただ、他の皆様のおかげで関東選手権の4継走れたのは良かったなと思います。
女性関係の話を書くのはアレですが、高校最後〜修士1年の最初くらいまで付き合っていた女性との時間のために土日を消化していた結果、休日に陸上の練習をすることはほとんどなかったです。オタク
彼女の存在によってセーブしていた物事を修士時代は特に気にすることがなくなったのでそういう点ではだいぶ楽しく過ごしていた気がします。
乗り換え相手が僕の高校同期だったのがよくなかったので、それなりにトラウマな感じではありますが、学びもくれたのではと思っています。
ヤッた話しなくても良くない?
好きな人には好きと言いましょう。というところはあるので、
私はみおちゃんが好きです。
社会人
住宅補助がない代わりに多少給与が高いかなくらいの会社に入り、ヌルッと過ごしています。
来年・再来年くらいにするかわかりませんが、転職を考えようかとは思います。
修士時代にちょっとだけ行き始めたドル現場にちゃんと行き始めた結果が今です。
家
この話を書くタイミングがわからないなと人生を振り返っていて思いますが、感じていることを書いておこうかと思います。
よくある感じの父親が医師、母親が看護師という家庭です。で、2学年下に弟がいるというオーソドックスな感じですね。
仲は良い方だと思いますが、弟とはあまり連絡を取ることはないです。要件があれば連絡しますが、特にないので。
私も弟も特に医療系を志すことなく(大変そうなので)適当に双方国立大学理系学部に進学して、私は6年、弟は途中まで通いで2年弱くらい一人暮らしをして奨学金を借りることもなく過ごしました。これって意外と恵まれていることなのかと周りを見て思いますので親・祖父母には感謝です。
ですが、実は父親はだいぶ前に亡くなっており、2021/1/27で父親が亡くなってから22年ということになります。
この辺のことはなかなか人に話すことがないのですが、一度文章化したいなと思っていました。
私の誕生日は1/28なので、4歳の誕生日がなんか変な感じだったのと自宅で亡くなってたのはなんとなく覚えています。
父親が医師だったのとガンで亡くなっている事実については昔から認識していましたが、それまでどんな人生を過ごしていたかという事実については高校卒業くらいまでよくわかっていませんでした。
高校卒業時に家の掃除をしていたら偶然本を見つけてそれを読んで色々知った感じでした。おそらくこういうものとして残っている私のような例は比較的特殊だと思います。麻酔関連の雑誌に載っけていたそうです。献本で家にはいくつかあるので、弟が婚約したタイミングで親から本を貰いましたが、おそらく母親的にはそのタイミングで読んで欲しかったのかなと思います。というのもあり、10月ごろ本を受け取ったのでなんか書くかと思ったわけです。
本はいろんな図書館にあるっぽいのですが、例えばかつて住んでいた柏市の図書館にあったりします。リンクの通りです。(僕の名前が分かる方なら3文字一緒ですし、苗字的に珍しいので分かります。)
父母の年齢差が10歳あるのですが、母親が29歳の時に私が生まれています。その前に一度流産しているらしいですし、人生ってわからんねと思います。あとは父親に離婚歴があるそうですが、子供は彼女が数年おらずアイドルにガチ恋している人生なんですが...となります。かつて戸籍謄本を出力した際に確認しましたが、確かにそれっぽい記述があり、調べてみたらおそらく某有名大学の教授っぽいなとなりましたが、深追いはしません。
私が生まれる直前くらいに父親が39歳で最初肺がんの発覚・手術しているそうなので大変な話ですね。その時点では10年くらいは生きるつもりだったっぽいですが...。術後3年後に再発を確認して、トータルで実際は4年ですね。柏の葉のがん研究センターの開院から働いていたそうですが、自分がガンになるとは悲しいお話です。
父親の経歴を見ると千葉医を出て後期研修後にカナダでPh.Dという比較的研究寄りな経歴だそうです。麻酔だったり呼吸系の論文が多い感じがあります。指導教官だった方から毎年クリスマスカードが届いていた記憶がありますが、結構な年齢だと思うのでここ数年はない気がします。
母はそれなりに自由に育ててくれたと思いますが、父がいたらまた違った感じになっていたかと思います。良い面も想定されますし、逆に勉強を押し付けられてやる気がなくなっていたかもしれないですからわからないですね。(掛けられるお金はより多かったと思いますが。)父の共同研究者とかを調べると今現在は大学教授だったり病院院長なのでまあそういうことです。
父の書いた文章の所々に子供である私と弟や、妻である私の母の将来の心配の記述が散見されますし、長男の誕生日まで生きているか等の記述があるのはなんとも言えない気持ちにはなりますね。結局私の誕生日の前日に亡くなっているわけですが。
父が亡くなる前に3歳の夏にカナダに旅行に行ったのが微妙に記憶にありますが、ほぼ記憶がないです。親的には「有形無形に子供たちの成長に役立つことを願っています」ということなので覚えてなくてすまん...となります。
母的にも時間が取れる私・弟の大学時代に母が緩和ケアの資格を取ったりしていたのはそういう経緯もあるのだろうなと思いますが、死を高確率で迎えるであろう状況でどう考えて、どう過ごしていくかというのは難しい話だなと思います。父の場合は家族の心配というところかとは思いますが...。
例えばこれは親の文章です。死というものは必ず訪れるものですが、そこに至る過程は千差万別でわからないというのが生きることの難しさですね。
これについて考えています pic.twitter.com/UCl8iugqm2
— そたもち (@3A204) 2021年1月2日
詳細記述していませんでしたが、上に書いていた小学生時代の引っ越しは流石に全て1人でやりつつ働くのはそれなりにきついので、母の実家近くに引っ越したわけでした。大人になってみると持ち家売却することによる損失もまあまあでかいなと思いますが。父の実家も稲毛なのでどちらにも近づいていたわけです。
父は私が生まれた時点で千葉医に入って欲しかったそうですし、親のやろうとしていた研究やらのことを考えると今の私の過ごし方は微妙かもしれないですが、これは私の人生なのでまあやりたいようにやっていこうかと思います。
酒飲んだノリで書いていたので文章変かもしれないです。 26歳男性も元気に過ごしたいです。引き続きよろしくお願いします。